■品川区南品川6-7 ■京浜急行 青物横丁駅下車10分 ■ゼームス坂の途中にあった「ゼームス坂病院」は、詩集『智恵子抄』で有名な高村光太郎の妻、智恵子の終焉(しゅうえん)の地である。 高村光太郎は、彫刻家高村光雲の長男として東京で生まれ、彫刻家・詩人として活躍した。その妻智恵子は、福島県二本松の裕福な造り酒屋に生まれ、日本女子大学を卒業後、絵画を学ぶうち光太郎と知り合い、大正3年(1914)に結婚した。 智恵子は、そのころには珍しく社会的自立を目指す女性で、絵画の創作を単なる趣味ではなく、経済的自立の手段と考えていた。しかし、結婚後は、思うように絵が描けず、また、父の死や実家の没落も打撃となって、智恵子は次第に精神を病むようになる。光太郎は仕事を減らして看病に専念したが、病状は、すすむ一方で、昭和10年(1935)にはゼームス坂病院に入院した。 この病院で智恵子は、今まで抑(おさ)えられていた創作意欲をはきだすかのように切り絵に没頭し、一千点もの作品を残す。しかし、遂(つい)に退院できぬまま、3年後に生涯を終えた。 ゼームス坂病院は、戦後まもなく取り壊されてしまったが、その跡地の一角に、記念碑「レモン哀歌の碑」が建てられている。 1938年智恵子が死ぬ数時間前にレモンを口に含んだときの様子が光太郎の詩「レモン哀歌」に見事に描かれている。この日10月5日は「レモンの日」と名づけられている。 ■詩集「智恵子抄」より=レモン哀歌= そんなにもあなたはレモンを待つてゐた かなしく白くあかるい死の床で 私の手からとつた一つのレモンを あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ トパアズいろの香気が立つ その数滴の天のものなるレモンの汁は ぱつとあなたの意識を正常にした あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ わたしの手を握るあなたの力の健康さよ あなたの咽喉に嵐はあるが かういふ命の瀬戸ぎはに 智恵子はもとの智恵子となり 生涯の愛を一瞬にかたむけた それからひと時 昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして あなたの機関ははそれなり止まつた 写真の前に挿した桜の花かげに すずしく光るレモンを今日も置かう
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