![]() | 8.平塚宿〜大磯宿へ(街道地図) |
| 神奈川県平塚市平塚→花水橋→化粧坂→大磯宿(3km:1時間) |
■ 平塚宿について ■(1999年6月19日)雨![]()
長い相模川を渡ったあたりから少し疲れが出てきた。広重が描く大磯宿が雨の中じゃなかったら、
ここ平塚宿から帰ったかもしれない。
・・・・・・広重の平塚宿は高麗山を背景に描き、中央に縄手道すなわち田の間の道(あぜ道)を走りくる飛脚と
、空(から)の四手駕籠を担いだ人を描く。
:平塚の地名の由来は、平氏の始祖の近親者といわれる平真砂子が旅の途中に没し、ここに葬られたことによるらしい。
まずは賑やかな商店街の喫茶店で靴下を取り替え、思う存分タバコを吸った。
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■ 商店街 ■約100m![]()
相模川を渡って真っ直ぐに来ると商店街になった。この湘南スターモール商店街は旧東海道らしい、
ここ平塚の七月七日の七夕まつりは、仙台市と並んで全国的に有名だ。
以前にこの通りは?来たことがあるが、パチンコで散々ヤラレタ思い出があり街の印象は悪かった。
しかし最近出来たのか雨避けのアーケードは堅気の旅人にとって嬉しくやさしい街だ。
商店の人に紅谷町公園を尋ねると、知らなかったが「お菊さん」の名を出すと
駅寄りの左側の横丁を親切に教えてくれた。
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■ 番町皿屋敷・お菊の墓 ■約100m
繁華街の一角に紅谷町公園はあった。その植え込みの中に
怪談「番町皿屋敷」の主人公お菊の塚がひっそりといた。
(
伝承によるとお菊は平塚宿のお役人の娘で行儀作法見習のため、江戸の旗本青山主膳方に奉公していた。
ある時、家来に見染められたが、菊女がなびかないため「可愛さ余って憎さ百倍」と
青山家の家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので
菊女は主人から手討ちにより殺されてしまった。後日皿は発見されたという。
この事件は、元文五年(1740)2月の出来事で、後に怪談「番町皿屋敷」の素材にされた。
(話によると当時24才で菊女はきりょうが良く小町と呼ばれていた)
その死骸は長持詰めとなって馬入の渡場で父親に引き渡された。
このとき父親真壁源右衛門は、「あるほどの花投げ入れよすみれ草」の句を手向け、
源右衛門は刑死人の例にならい墓をつくらず、センダンの木を植えて墓標とした。
戦前はこの付近が墓地で菊女の墓もここにあったが、戦災復興の区画整理移転により現在の立野町晴雲寺の真壁家墓地に納められている)
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■ 平塚宿史跡1 ■約2〜300m![]() ![]()
先ほどの湘南スターモール商店街に戻り東海道を歩く。
市民センターというバス停のそばにダンゴ屋さんがあり、傍らに「平塚見附之跡」があった。
(
平塚見附=その当時、見附と称する塚を築き、それは、城門に疑して石垣を積み、上に芝を張った縦2m、横2.5m、高さ1.5mほどのもので、東海道をはさんで北側と南側にあった。
)
ここらへんが江戸時代の平塚宿らしい。しばらく歩くと歩道脇に「本陣跡」(大名等の身分の高い人が泊まる宿)や「高札場跡」(幕府が行政を人々に知らしめる為置いた掲示板の場所)
の石碑がある
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■ 平塚宿史跡2 ■約2〜300m![]()
前方に高麗山が見える。広重の絵に出てくる丸い山だ。あの山だけは昔と変わらないのだ。
大磯は山の向こうだ・・本当に平塚から3キロ?3キロってそんなに遠いのか、俺は、雨の中すでに15キロ以上
歩いている。人間って素晴らしい。
右手に、火の見櫓を構えた白壁と格子と瓦葺きの時代を思わせるような粋な建物が見えてきた。これは、平塚市消防団第一分団の建物。
「西組問屋場跡の碑」案内板を見ると(
八幡新宿は平塚宿の加宿となり、新たに平塚宿に問屋場を新設した。これにより従来からの問屋場を「西組問屋場」といい、八幡新宿の経営する問屋場を「東組問屋場」といった。この両問屋場は十日目交代で執務したという)
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■ 高麗山・高来神社 ■約500m![]()
建物を避け高麗山を写そうと思っていたら国道1号とぶつかり左に「花水橋」が見えた
高麗山=(標高168m:
668年、朝鮮半島の高句麗が滅亡した時、その王族の一部が相模湾から大磯海岸に上陸し、この山麓に住んだという。
この丸い山は渡来人たちの海から目印でもあった。
山の麓には高来神社があり、頂上まで登れるようになっている。昔は高麗神社と言われていたが日本の朝鮮支配後に現在の名前になった
)
「花水川」を渡り高来神社を右に見ながら進む。歩道が斜めっている。歩きにくい、左足の甲と右足の膝裏が少し痛い、
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■ 化粧坂 ■約1km![]()
途中、傾斜はないのに化粧坂公園という名の公園があったので入って見た。
(どうやら旧道を見失ったようだ。松並木の記憶がない)
公園の中に虎御前の碑があった。
虎御前の化粧井戸=(
平安・鎌倉期には、化粧坂近辺が大磯の中心地で、化粧坂には遊女屋も多く、そのためこの地名があるのであろう。
虎御前は大磯一の美女であったと言われ、この井戸の水で毎日化粧をしたという伝説がある。
舞の名手で知られた。遊女虎御前は、「曽我兄弟の仇討ち」で知られる兄十郎祐成と恋仲となり契りを結ぶ。
)
前方に東海道線が見えてきた。ここを越せば大磯駅はすぐ。足の筋肉痛が心地よい。
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■ 雨の大磯宿 ■約1km![]()
ガードを越えてから中々駅が見えてこない。それでも、水溜まりを避けながら歩いていると
歩道のマンホールに大磯の刻印が見えている。
写真では状況を伝えられないが、雨降りしきる!
こんな時、せっかくだからと海を見ようと格好つけたのが
大間違い。途中で、この天気じゃ海も真っ黒だと気がつき引き返した。
疲れているもう一人の自分にスミマセン、もぉ寄り道しません。カレーライスが食いたい。風呂に入りたい。
どっちが本当の自分かよく解らなくなってしまった。
大磯駅に通じる歩道橋にたどり着いた。橋上から近い将来歩くであろう東海道西への道を眺めた。
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■ 大磯駅へ ■約200m![]()
歩道橋を降りて目の前の建物が駅舎に見えたが違っていた。ガックリ!!
途中、品質の良さそうな女性に駅を尋ねたら、やさしく「あの坂の上にあります」と
教えてくれた。本当にやさしくありがとう。今日は雨でどこにも座ることが出来ないのです。
・・・坂の上は湘南の軽井沢だった。海水浴の発祥地、大磯駅前は素晴らしい。
ビルやケバケバしい商店もなく、お金持ちが暮らすリゾート地であった。
・・・感心しててもお腹は一杯にならず、時計はすでに午後1時近くになっていた。
・・・午後13時40分:足を引き摺っている男が一人、品川駅のカレースタンドに向かっていた。 (行程1時間(計4.5時間)・1999.6/19(土):万歩計=32144・電車移動含) |
7.藤沢宿〜平塚宿へ
9.大磯宿〜小田原宿へ
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