1.日本橋〜品川宿へ(街道地図)
東京都中央区日本橋一丁目→京橋→銀座→新橋→芝(浜松町)→高輪→品川(8km:2時間)

■ 東海道を歩く ■(1999年5月3日)晴
日本橋から京都まで東海道53の宿場を歩くことが夢だった。
今まで旅行のついでに各地の宿場を訪ねたことはあったのですが、昔の旅人(弥次さん喜多さん)のように移動手段として歩くことはありませんでした。 またパソコンばかりやっているオジサンが本当に歩けるのかも不安でした。 しかしゴールデンウィークの暇と良い天気に任せて決意、子供に日本橋から品川まで 歩いたら懸賞金を出すからと言って相棒の喜多さんを確保。そして1999年5月3日歩き出したのです。

■ 日本橋からの旅立ち ■
日本橋は徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年に初めて架けられた橋で翌1604年には東海道や中仙道などの一里塚として現在に至るまで全国道路の基点となっている。 現在の橋は明治44年に石橋として架け替えられたものである。 写真の日本国道路元標は車が走る中、危険を犯して橋の中央分離帯上にある本物を写した。 橋のたもとには日本橋魚市場発祥の跡がある。 ・・・ここから歩くと思うと何だかワクワクするなぁ・・・

■ 京橋・銀座 ■約1km
・・・日本橋から銀座方面を歩いてスグ右手にマクドナルドの看板が見えた。 子供の喜多さんからマックシェィクが半額だと言われ腹ごしらえ・・(安くて親孝行な子供です)・・・・ 余ったポテトを片手に京橋へ( 京橋の名は日本橋に対して西の京都側というので付けられた名、いまは京橋川も埋め立てられ、ただの通りになっているので当時の石橋の擬宝珠が写真のように記念碑として残っている) しばらく歩くと人込みの銀座だ。人が多くて歩きにくい。ゆったりと歩くのと人込みの中を歩くのでは大違い。疲労度が倍加するのだ。品川まで本当に歩けるのか不安。

■ 新橋から三田 ■約3〜4km
銀座を抜けると新橋、明治5年日本で初めて鉄道が開通♪汽笛一声新橋を♪と昔はこの駅から横浜まで汽車が走ったようです。 かなり歩いたら浜松町。右手に大門があり東京タワーを背にした芝増上寺が見えた。 行こうと思ったが、ここまで1時間30分かかっている、その間、缶ジュース4本を飲み干している喜多さんがトイレ!トイレ!と騒ぎ世界貿易センターの1階高級トイレへ直行してしまった。 少し休んで本気になって歩き出し、ついに三田(田町)に到着。幕末、西郷隆盛と勝海舟が会見した場所(写真左)を見て札の辻の歩道橋から今来た道を振り返ってみた。 (この歩道橋を渡らなければ先に進めない)・・・思えば遠くへ来たもんだ・・・俺たちってスゴイ!!

■ 高輪・泉岳寺 ■約2〜3km
ここから先は我が家の箱庭のようなものだ。国史跡の高輪大木戸跡が見えてきた。(写真左: 江戸時代は町ごとに木戸を設け、自身番をおいて警固させた。江戸の入口であるため高輪は大木戸と呼ばれ、旅人が旅装を整えたり、送り迎えされるのもここまでであった。 また伊能忠敬が全国測量の基点としたのもこの場所である) ここで缶ジュースをもう一本。喜多さんはすでに5本を消化しているのだ。飲み干す間もなく右手坂上に泉岳寺。 幡州赤穂(兵庫県)浅野家の菩提寺。忠臣蔵で有名な四十七士の墓所がある。右の写真は大石内蔵助像

■ やったぜ品川宿 ■約1km
おぉ〜!懐かしのプリンスホテルが見えてきた。左の方には品川インターシティだ。 もうすぐゴールの品川宿、懐かしの商店街。すでに喜多さんはゴール体制を意識して賞金贈呈式の会場はどこだ!と聞いてきた。 まだ覚えていたのかと我が子ながら感心した。品川駅をすぎ国道15号を行かずに左の八つ山橋を渡り京浜急行踏み切り手前右が品川宿の入り口だ。 ついに日本橋−品川宿を歩き通した。自分の足をワックスで車を磨くように何度も擦ってみた。 そして何度も何度もよくやったな〜と注意をそらしてみたが、喜多八は忘れていなかった。 ここで喜多さんに約束の懸賞金2000円をガックリと手渡したのだった。 (全行程2時間30分・1999.5/3)

旅人:浮浪雲
ご意見箱 2.品川宿〜川崎宿へ