45.四日市宿〜石薬師宿へ(街道地図)
三重県四日市市→天白橋→日永追分→杖衝坂→采女(10km:3時間)

■ 四日市宿について ■(2000年3月16日)雨
広重が描く三滝橋は、風が吹く田園風景だった。 今は見る影も無く、風だけが吹いている。(写真右) ・・・・こんな日は歩く事に集中し、残念ながら景色を楽しむ余裕がない、 それでも歩き続けるのは東海道だからだ。 これが普通の幹線道路だったら、とっくに風呂でも入って寝てると思う。 ・・・・ この地は江戸以前から海陸交通の要で人が集まり、毎月4日に開かれる市が 定期的に行われ、四日市の名がついたといわれる。 また、伊勢参宮道への追分をひかえていたため宮から船で渡る 「十里の渡し」という船便もあり、江戸期においても宿場として賑わった。 現在では三重県最大の都市で石油コンビナートが立ち並ぶ日本有数の 重工業地帯となっている。

■ 「すぐ江戸道」の道標 ■約1〜2km
東海道は青空博物館と誰かが言っていた。橋を越すと「なが餅」の笹井屋(写真左)が見えた。 (なが餅=細長く延ばした餡入り餅で、藤堂高虎が足軽時代に食し「武運ながき餅は幸先よし」 として気に入り有名になった) 大通りを渡ると前方に「江戸の辻」の指差し道標(写真中)がある。 「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」と書かれている「すぐ」とは、まっすぐの意味。 ここから、国道一号線を渡ると東海道はライオン通りというアーケード街(写真右) に変身する。入口に諏訪神社。

■ 四日市宿場〜日永 ■約2〜3km
アーケイド街を抜け、近鉄のガードを潜ると宿場の面影が残る浜田の家並み(写真左)が続く。 小さな川(写真中)を越えると鹿化橋(写真右)。ここから日永町に入る。 ・・・靴下を履き替えようとリュックを開いたら、ビニールに包んでいた 全ての装備が水浸し。ウゥゥ〜〜!デジカメ電池やメモリーが濡れている。 贅沢なことは言っていられない。 身体や靴下なんか時間が経てば回復するからどうでもいいけど ・・・電池君、メモリー君は果してがんばってくれるのだろーか。

■ 天白橋〜泊 ■約2〜3km
小さな不安を胸に旅人は行く。 興生寺を過ぎ天白橋(写真左)を越えるとやがて大きな道路に出る。 信号を横断すると右に街道に似合う白塀(写真中)があった。 雨降りしきる中、車が立ち去るのを辛抱強く待ってこの白壁を自分だけの ものにする。 日永神社を過ぎたあたりで 珍しい形をした碑を見付けた。何だろう? ・・・ 身も心も濡れている旅人に街道は春の訪れを見せてくれた。 幾らか気持ちが晴れて足取りも軽い。ついでに日永一里塚を見逃す。

■ 日永の追分 ■約2〜3km・・この追分から伊勢街道へ
泊の町並み(写真左)を歩いて行くと国道に交差する。 その先、分かれ道の三角地に「日永の追分」(写真中)があった。 (日永の追分= 東海道と伊勢参宮街道の分岐点で、 当時の伊勢神宮二ノ鳥居や石道標、 常夜灯などが残されている。 道標には「右京大坂道」「左いせ参宮道」と彫られている。 ) 右の京大坂道を歩き、近鉄追分駅線路を越えた辺りで 東海道は左に曲がる。やがて街道は狭い住宅地を抜け国道(写真右)を横断する。

■ 伝説の杖衝坂つえつきざか約5〜600m
国道に架る内部橋を渡り、静かな佇まいの旧道を左に入って行く。 住宅街の坂を登り右カーブした辺りから、坂は急勾配となった。 左に杖衝坂碑と芭蕉句碑(写真合成) 「徒歩ならば杖衝坂を落馬かな」 この杖衝坂(写真中)は傷ついた日本武尊が剣を杖代わりに登ったとの伝説がある。 坂の上には武尊が傷ついた足を止血した場所と言われる血塚社(写真右)があった。 (注:私事ですが電池とメモリーは使えました)

■ 国道歩き〜石薬師 ■約2〜3km
高台を歩いてすぐに国道と合流した。道路反対側に「采女一里塚跡」(写真左) (小さ過ぎて判別不能?) しばらく国道を歩くと左に旧道への道がある。 入ってすぐに延命地蔵尊古い家屋(写真中)が残る小谷の集落を抜け再び国道に出る。 横断して右手に見える街道(写真右)が石薬師宿の入口だ。
・・・16時、雨も上がり、傘の代わりに魚肉ソーセージを握り締めている 不屈の男がいた・・ (行程3時間・2000.3/16(木):万歩計=計測中)

旅人:浮浪雲
44.桑名宿〜四日市宿 46.石薬師宿〜庄野宿