44.桑名宿〜四日市宿へ(街道地図)
三重県桑名市→矢田立場→朝日駅→富田一里塚→力石→光明寺(12km:4時間)

■ 桑名宿について ■(2000年3月16日)雨
・・・・銭湯通いの商店街で、昔の人々が歩いている姿を感じていた。 この地面は京都へ続いている。道の向こうに何かがある。 何時か俺も歩いて京都に行きたい。・・・・ そんな夢が足を動かし350kの道を歩かせたのだ。 しかし宮の渡しで東海道は消えていた。何故か空しい気持ちで時を過ごしてしまった。 夢を助ける足が意志を持ち、道を楽しむウェイトが大きくなったのかも知れない。 ・・・・昔の人が伊勢や京都へ行くように桑名から東海道を再び歩き出した。 ・・・・ 桑名宿は江戸から42番目の宿駅で、尾張から海上七里を渡り 伊勢神宮へ参拝する人々で賑わいを見せ、 また木曽・揖斐・長良川の三大河川が合流する河口に位置し、物資が集積される 要所としても繁栄した。 しかし歴史的建造物は江戸期の二度の大火、明治維新の戦い(桑名城破壊) 太平洋戦争、昭和の伊勢湾台風の被害により、その殆どを失い、宿場の面影は無くなってしまった。

■ 七里の渡し跡 ■約100m
雨の桑名駅に9時到着、タクシーで七里の渡し跡へ行く。 ・・・運転手に雨の日は空から金が降ってくるようなものだと聞かされ、 気の小さい江戸っ子は千円札を出し釣り銭を受け取れなかった・・・ 住宅密集地に七里の渡し跡はあった。白壁に石碑(写真左)が無ければ気が付かない 狭い公園「伊勢の国一の鳥居」が昔の面影を残している。 通り北の大塚本陣跡地では懐石料理の船津屋(写真右)が営業していた。 ・・・雨足は強く風を伴い、急ぎ西へ向かうことにする。

■ 春日神社青銅鳥居・しるべ石 ■約4〜500m
大きな通りを越えると春日神社(桑名神社)の青銅鳥居(写真左)が右手に見える。 「桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱女郎」とうたわれた有名な鳥居である。 鳥居脇にある「しるべ石」(写真中)は人探し用の掲示石で、左右に 「たづぬるかた」「おしへるかた」 と書かれていて、それぞれが、そこに紙を貼るシステムになっていた。 左前方に雨宿りできる公園があった。公園は東海道(写真右)を模している。 雨は止みそうに無い。突き当たりを右に折れ交差点を渡り市街を歩く。(順路略)

■ 矢田立場〜常夜燈 ■約3〜4km
傘を持つ手にデジカメ・地図は辛い。どうやら道に迷ったらしい。 吹きさらしの畑の中を彷徨し、挙げ句の果てに水溜まりに足を突っ込み自爆した。 街道に復帰したのはズボンが膝まで濡れた頃だった。 薬屋で液体胃腸薬を飲み、突き当たりの矢田立場(写真左)を背にして西に行く。10:00 安永の家並み(写真中)を抜け国道下を潜るとやがて町屋川に行き止まる。 手前に材木問屋の寄進による「伊勢神宮の常夜燈」と「里程標」(写真右)があった。

■ 朝明橋・富田一里塚 ■約4〜5km
道の先に踏切りが見え「伊勢朝日駅」で雨宿り。 小向神社石柱を過ぎた辺りでリュックの水滴が尻を濡らしていた。 街道に面した洋品店でたった1つ残っていた子供用のレインコートを強引に買い、腰に巻く。 4月になれば花咲く並木道を歩き、やがて朝明橋(写真左)に到達。 三岐鉄道のガード(写真中)を抜けて次の近鉄のガード脇に富田一里塚石標(写真右)があった。 この辺りから市街地となる。 善教寺近くの四日市屋という店でお昼にした。11:40 (天婦羅定食1400円、座布団濡らしてゴメンナサイ)

■ 薬師寺・力石 ■約1〜2km
橋を(写真左)渡った右隅に小さな常夜燈 そして薬師寺(写真中)の大きな石碑群常照寺と続く。正面に新設用水道碑と力石(写真右)が置いてある。 力石(寺の建設のために集まった村人達が力自慢を競い合い 持ち上げた石) 雨も幾らか小降りになり、ほっと一息。 やさしい雨は大歓迎!街道の家並みはしっとり濡れた位が美しい。 東海道を歩いて気がついたのだが、 街道沿いの古い家屋は軒が長く、旅人に日除けや 雨宿りをさせてくれる構造になっていた。

■ 光明寺〜海蔵川土手 ■約2〜3km
桑名から四日市間は小さな河川が数多く横切る。必ずと言って良いほど 川岸に常夜燈が置かれている。この米洗川にも常夜燈はあった。 街道の二本の松(写真左)を過ぎ光明寺(写真中)までやって来た。 やがて道は海蔵川に突き当たり(写真右)右手の国道に架る海蔵橋を渡ることになる。
・・・13時、傘を片手に破れた地図を出したり入れたりして楽しんでいる 男の頭は計り知れないものがある・・ (行程4時間)・2000.3/16(木):万歩計=計測中)

旅人:浮浪雲
43.宮宿〜桑名宿 45.四日市宿〜石薬師宿