34.白須賀宿〜二川宿へ(街道地図) |
静岡県湖西市白須賀→元町一里塚→潮見坂→宿場本陣→細谷一里塚→国道(7km:3時間) |
■ 白須賀宿について ■(1999年12月17日)曇 今日の難所は潮見坂、その前に飯を何とかしなくてはと、 さっきから食堂を探しているのだが一軒も無い。 肉体の苦痛は調節できるけど、じっとしてても腹は減ってガマン出来ないのだ。・・・ 歩くことは肉体労働の喜びかも知れない。 宿場に着けば食べる事も寝ることも出来る単純な喜び・・・。 まったく現代の新居・白須賀は商売っ気の無い宿場だ。 しかし旅人は、このことの素晴らしさに後で気がつくことになった。 鎌倉時代から「白い砂州の上に開けた集落」の事を「白須賀」と言うらしい。 その名の通り宿場は海辺近くにあったが1707年の大地震で壊滅したため 翌年、潮見坂の上に移された。 |
■ 元町一里塚〜神明神社 ■約5〜600m やがて家並みが現れ元町に入る。(元の白須賀宿) 民家の前に元町一里塚跡、ここには高札場跡、問屋場跡の 旧跡が一緒に集められている。 (この辺りということで勘弁してもらうつもりらしい) その先角地に白壁の美しい神明神社があった。 街道歩きは史跡をチェックポイントにしたウォークラリー に似ていてマップを持ってなかったら判らない史跡・旧跡が沢山あるが、 現存する歴史はとても有り難い。 |
■ 潮見観音・潮見坂 ■約5〜600m 右に蔵法寺が見えたので境内の観音様にお参りをしてきた。 (岡山藩主池田綱政が観世音を信仰していたお陰で危難を救われたという) ついでに目の前に有ったトイレを勝手に使用した。 帰り際、罰が当たったのか犬に散々吠えられる。 右に曲がる街道は山の中へ向かっていた。 ここが潮見坂だ。かなりの急坂をゆっくりと登る。 (箱根の経験から過激に筋肉を使わないようにした) |
■ 潮見坂公園跡・白須賀宿場 ■約500m 潮見坂公園跡から海を眺めたが景色は遠く、空も曇って海は見えない。 公園跡だから道の片隅に石碑があるだけの狭いスペースだ。 右の白須賀中学校の敷地が公園だったらしい。 道は合流し、整然と板格子が立ち並ぶ白須賀宿に入っていく。 街道の家並みが薄暗い空に包まれている。その光景は全てが無色だ。 ついに昔の世界にやってきた・・本物だ・・ 何故この時代に残されているのだろう・・・奇跡の街道は西へゆっくりと下って行く。 |
■ 曲尺手・本陣・史跡 ■約500m 宿場に店舗はなかった。 商売っ気の無い事は素晴らしいことだった。 東海道はまだ生きていたのだ。・・・・ そして空腹に覚醒した。 曲尺手(写真左)(かねんて)を過ぎた本陣跡(写真中)前のメイン通りで買い物主婦に飯屋を尋ねてみた。 結局、この街道沿いには食べる所は無く、信号を左折した国道1号に和食堂(東屋)があるという。 忝けない!生姜焼き定食とあさり汁800円。 午後1時近く街道に戻り、この地の国学者屋敷跡(写真右)を後にした。 |
■ 火防樹〜庚申堂 ■約500m 先には火防樹(写真左)の槙が道の左右に僅かに残っていた。 (槇の木は燃えにくく耐火用に優れている) 住宅事情のせいか、土塁は削られ根が剥き出していて、 後何年後には倒れて無くなるように思える。 古い家々には旧屋号の表札がかけてあり、風情のある懐かしい家(写真中)も多い。 右に豪華な瓦屋根を持った庚申堂(1841年)(写真右)が一際目立つ。 境内には見猿・聞か猿・言わ猿の3匹の猿がいた。 |
■ 境宿・細谷一里塚・キャベツ畑 ■約1〜2km やがて街道は早くも境宿である。(夢舞台の境宿道標) (この辺りに猿ヶ馬場という立場があって柏餅を出し白須賀の名物 となっていた) 道は国道と合流し、その先境川を渡って愛知県に入る。 しばらく歩くと右に緑の森が見えた。細谷一里塚(写真中) ここを過ぎると二川まで何も無い。風が強い、周りは一面のキャベツ畑(写真右) ここから1時間以上、騒音・排ガスの一本道を歩くことになる。 |
■ ひたすら国道を歩いて二川へ ■約4〜5km 歩道は広く歩き易い(写真左)が、ひたすら何も無く、 騒音と砂埃の風に耐え、 歩きながら時間の経過を待ち続けた。 やがて和田さんの旧東海道の旅で見た 「立岩」と名付けられた山が見えてきた(写真中) 新幹線と国道は並列しながら近づき、接点となった新幹線のガード(写真右)を潜り 14:40踏切りを渡って二川の宿に入った。 ・・・15:00:二川本陣の大きな座敷で庭を見ながら寝転んでいる殿様がいた。・・・ (行程3時間・1999.12/17(金):万歩計=測定中) |
33.新居宿〜白須賀宿へ 35.二川宿〜吉田宿へ |