33.新居宿〜白須賀宿へ
(街道地図)
静岡県新居町→関所→本陣→一里塚→風炉の井→松並木→白須賀(6km:2時間)
■ 新居宿について ■
(1999年12月17日)晴→曇
新居に着いたら名物の「あと引き煎餅」を食べようと考えていた。 しかし、気が付いた時には宿場を後にしていた。 街道を歩いていると多くの事を忘れてしまう。 生まれたばかりの子供のように過去や未来の思考回路が機能しない。 景色が移り変わる現実の世界の前では左脳は何の役にもたたない。 時間さえも意味を持たない。まだ昼前だけど、お腹が空いた時がお昼なのだ・・・
新居宿は災害によって宿場の位置が二度変っている。 関所と渡船権をもつ新居宿は宿場としての機能は小規模で 旅篭の数も東海道五十三次中四十八番目と言われている。
■ 山頭火〜新居の船泊り ■
約500m
新居町駅から100m程離れた場所に
種田山頭火の句碑
・・水のまんなかの道がまっすぐ・・
はあった。 何も持たず、何の匂いもしない、現在を、そのままに感じ 歩いている今の俺って山頭火・・・? 錯覚を起こす事も心の健康に大切!(但し一瞬にしておいて下さい)せっかく新居にきたのだから路地裏を観光することにする。 街道を外れ漂うと
古い家
の奥に
新居の船
が肩を寄せ合い停泊していた。
■ 渡船場跡・新居関所 ■
約500m
右手に観光バスが駐車できる大きな広場がある。 手前に新居
渡船場跡(写真左)
の常夜灯。その向こうには
新居の関所
が見える。 位置関係から舞坂から船で来た者は関所の柵の中だったらしい。
この関所は1600年に今切関所として海側に設置されていたが、 その後、移転をし現在地に置かれた。 「入り鉄砲に出女」を厳重に取り締まったため、 多くの女たちはこの関所を通過しない姫街道を利用した。 全国で現存する唯一の関所建物(1855年)として残っている
■ 本陣跡・寄馬跡 ■
約200m
関所を過ぎると街道は突き当たる。 右角に
疋田弥五助の本陣(写真左)
(加賀・対馬藩)正面は
飯田武兵衛本陣(写真中)
(桑名・敦賀藩) ここを左に曲がるとすぐに疋田八郎兵衛本陣(将軍、薩摩・長州藩)がある。 新居宿には以上3軒の本陣があり、それぞれにお得意様は決まっていたらしい。 隣には
寄馬跡(写真右)
(寄せ集められた人馬の継立所)
の石碑があった。 どうやら宿場の中心を歩いているようだ。
■ 宿場〜新居一里塚 ■
約800m
宿場内の
古い家並み(写真左)
の残る道を5〜600m歩くと左の路傍に
新居一里塚跡(写真中)
がひっそりとある。 その先の
道は右左にうねって(写真右)
曲がる。 この辺りが
棒鼻の跡だ
(棒鼻=宿場のはずれの事、道の両側から土塁が突き出て 一度に大勢が通れない)
宿場から出た途端、道も家も真新しく夢から覚めた感じがする。 新居町は現代っ子だなぁ・・やがて国道とぶつかり西へ行く。
■ 風炉の井・教恩寺 ■
約500m
国道に残る
古い家並み(写真左)
を見ながら5分程歩くと二又の信号がある。 右に堅牢な楼門を構えた
教恩寺(写真中)
(1300年創建、鐘楼門は江戸期、境内に高さ17.5mの大銀杏がある)
国道を挟んで反対側に
風炉の井(写真右)
があったので
覗いて見た
(1190年橋本宿に源頼朝が上洛のおり、この水を茶の湯に用いた と伝えられている)
忙しなく信号を戻り教恩寺側の街道を入る。
■ 松並木〜立場跡 ■
約1〜2km
まもなく
松並木が続き
、ゆったりとした気持ちで歩けるようになる。 並木道が切れた辺りに藤原為家の
「風わたる濱名の橋の夕しほにさされてのぼるあまの釣船」
歌碑がある。 その先に
家並み
が見え始めた頃、農家の一角に
立場跡(写真右)
があった、解説板のメモを取るのを忘れてしまったが、 ここで休憩した殿様がこの立場で何やら皮肉っている内容だった。 たしか?・
水飲め水飲めと勧めるが 魚や金魚じゃあるまいに
?・・ まぁいいか!
■ 火鎮神社〜白須賀へ ■
約1〜2km
明治天皇野立跡を過ぎると湖西市新町に入る。 右に旧白須賀宿の鎮守・
火鎮神社(写真左)
(ほづめじんじゃ)、
新町の町並みの先(写真中)
には 山が無い。街道歩きで会得した五感が海の近いことを知らせている。 そして
道は
何処までも続いていた・・・・ ・・・11:30:何でもほしがる旅人は何も無い街道でカレーライスを探していた。・・・ (行程2時間・1999.12/17(金):万歩計=計測中)
旅人:浮浪雲
32.
舞坂宿〜新居宿
へ
34.
白須賀宿〜二川宿
へ