16.吉原宿〜蒲原宿へ(街道地図) |
静岡県富士市吉原→左富士→鶴芝→雁堤→岩淵(11km:4時間) |
■ 吉原宿について ■(1999年8月27日)曇→晴 昨日はひたすら歩いてしまった。今までの最長記録だと思う。 両足にマメが4つぶ出来ている。吉原から由比までは無理かも知れない? 7:50曇り空の吉原駅を出発! (吉原宿は今のJR吉原駅付近にあったが、度重なる洪水で北へ北へと宿場町が移転、 現在の吉原本町に落ち着くことになった。 江戸から京都に上がる時は右の方に富士を見ながら行くのであるが、 宿場が内陸に移ったため富士山を左に見る北向きの道ができ、 今まで右手に見えていた富士山が、左に見える東海道唯一の名勝となった) |
■ 河合橋・工場群 ■約500m シャツ姿の人達に混ざって河合橋を渡る。 吉原に着いてから、どうも東海道に似合わない工場エントツが目に付くようになった。 これは吉原の洪水の歴史に関係あるらしい。 (富士川河口の低湿地帯を埋め立て工場群が進出した。 特に富士山の豊富な地下水を利用する紙・パルプ工場が林立し、富士市は急激な発展をとげた) この先、新幹線のガードを潜る、写真右の車両進入禁止の道が旧道です。 |
■ 左富士・ 平家越・吉原本町 ■約2〜3km 左富士神社は昭和になってからの名称である、 名勝左富士一本松の先のコンビニで「バンドエイド」を購入。足のマメが1円玉位の水袋に成っていた。 吉原の水害のようだ。 橋のタモトに「平家越えの碑」(写真中)があった。その他の石碑もここに結集している。 (平家越え=源頼朝を討つために平家は富士川西岸に布陣、 富士川の水鳥の大群が物音に驚いて一斉に飛び立つと 敵の襲来と誤認した平家の大軍は我先と逃げ出し、 源氏の軍勢は戦わずに勝利した。 碑の立つ現地は、現在の富士川より東に6キロも離れているが、 川が幾度も流域を変えていたことを示している。) 吉原本町駅(写真右)踏切りを渡る。 |
■ 富安橋から鶴芝 ■約3〜4km 商店街を抜け、バスターミナル付近で迷ったが、旧道に復帰し、9:10富安橋を渡った。カーブを曲ってすぐ右歩道 に「平成東海道五十三次ひとり旅」で見たことがある可愛い石仏と出会った。誰かにもらったお菓子を抱えていた。 途中、民家の庭にある鶴芝の碑(写真中)のそばで水門のある川を発見!・・ 足を引きづり富士市役所前を通過する。 |
■ 柚の木から道に迷う ■約2〜3km 札の辻や常夜灯等の旧跡を見ながら旧道を歩き 身延線の「柚の木駅」のガードを潜り通過、5方向の交差点で旧道らしき道を進んだ。 道は雁堤にぶち当たる。 橋が無い。遠くに見える赤い橋(写真右)を目指して歩いた。 親切そうなオジさんに聞いて見ると、この橋は東名高速で 人は歩いちゃいけないんだと教えてくれた。 |
■ 富士川・渡船場常夜灯 ■約1〜2km 何とか堤防から「富士川橋」に辿り着くことが出来た。たもとには水害を防ぐための水神社があり 一人占めで橋を歩く。 渡って右に富士川町岩淵の常夜灯がある。 (富士川は急流として知られ、 満水時には渡しも止められたため、岩淵は間の宿として 賑わい脇本陣跡なども残されています。岩淵の船着き場の常夜燈は、文政十年(1830年)、 渡船の安全を願って建立されたもの) 道路を横断して民家の脇道階段(写真右)から旧道へ行く。 |
■ 岩淵宿・旧街道 ■約2〜3km 道はまがりくねって坂道が続き、静かな山村となった。自転車に乗った小学生に「岩淵一里塚」(写真中)を 訪ねると「付いてきて下さ〜い」と走って行った。俺は走れないんだよ!途中で手招きして急かされた。 聞かなきゃ良かったなぁ。岩淵の喜多さんはクタクタの旅人に最後まで 付き合ってくれた・・(ありがとう) この先、秋葉常夜灯の近辺、郵便局手前の小さな十字路を右折し旧道へ入る。 東名高速を潜り、史跡に遭遇。ここを左に行く。 |
■ 山の中から蒲原宿へ ■約1〜2km 新幹線のガード下を抜け住宅街に入ってから気温は上昇してきた。 そして最後の急坂を上り切ると眼下に東名高速が走っていた。 これを渡れば蒲原の宿だ。金網の橋を渡り下り坂になる。 朝から歩きやすい天気だったが、ついにギラギラ太陽が出てきてしまった。 坂の途中で光蓮寺の石碑を見る。 まだお昼だった。時間はあるが歩くことは限界に近い ・・・午後12時30分:腹も減ったが、旅人はガマンして歩いていた。 (全行程4時間30分・1999.8/27(金):万歩計=継続中) |
15.原宿〜吉原宿へ 17.蒲原宿〜由比宿へ |