15.原宿〜吉原宿へ(街道地図)
静岡県沼津市原→松陰寺→桃里→田子の浦→昭和放水路→妙法寺(11km:4時間)

■ 原宿について ■(1999年8月26日)晴
片浜の踏切りを渡り一安心。歩き疲れてファミリーマート前のベンチで一休み。 時間はたっぷり有る。10分位休む。コンビニはボトルの補給(天然水)に便利だ。
原宿は沼津宿と吉原宿の間に設けられた東海道の中では小さな宿場である。 しかし浮島沼を背景にした富士山の眺めは街道一といわれ、広重はじめ多くの浮世絵師によって描かれている。 写真右は桃里地区の国道一号を越え「浮島ヶ原」まで行って撮ったものだが、ついに富士山は姿を現さなかった。

■ 松陰寺・原のお地蔵さん ■約200m
気が付くと、ここは昔から「原のお地蔵さん」として広く知られている清梵寺(写真右)の入口だ。 裏道を歩き周ると目の前に大きな松が見えた。「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士 のお山に原の白隠」とも歌われた白隠禅師の松陰寺(写真中)、擂鉢松だった。 擂鉢松(すりばち松)=備前岡山藩主池田候が立ち寄った際に、炊事番が大擂鉢を壊し、和尚は「時期が来たのだ」 と気にも留めなかったが、池田継政は備前焼の大擂鉢を数個作らせて届けた。 白隠はこれを台風で折れた松の傷口に雨よけに載せてやり、松はすり鉢を載せたまま大きくなった。

■ 原宿界隈 ■約200m
この宿場は白隠以外に何もないのではと思っていたので事前に「原町商工会」に観光マップを送ってもらっていた。 原町商工会の方は、連絡してくれればガイドを出します、とまで言ってくれたのです。 お陰でマップ片手にゆったり裏道まで散策できました。そしてまだ歩けそうです。 宿場を抜けてすぐに、向こうからリュックにサンダル姿の若者2人がやってきて、「原の駅は遠いですか?」 と聞いてきた。5−6分だと言ったら嬉しそうに歩いて行った。あのスタイルで何処から来たんだろう。

■ 沼川放水路 ■約1km
街道歩きのポイントである川が見えてきた。沼川第二放水路(写真左)だ。しかし富士山はまだ見えない(写真中)。 このあたりだと思うが「造り酒屋?」さんの店先に天然水が大量に流れ出ていた。 コップも用意されていて、旅人にやさしい冷たく美味しい水だった。 日本の道は歩道の整備や昔の一里塚のような休憩できる公園施設の建設等、 車両中心から、人にもやさしい環境に変ってほしいものです。

■ 桃里から踏切り ■約3〜4km
どこまでも続く一本道は浅間神社(写真左)がある桃里という場所に出た。 (この周辺は江戸時代に浮島ヶ原に開墾された助兵衛新田 があった所、明治時代になって名前が良くないと二代目鈴木助兵衛が願い出て桃里という地名になった) 疲れが出てきたころ、「東田子の浦」手前の踏切りを越す。何となく嬉しい。一本道のイベントは 踏切りを越すことだけ。しばらく行くと国道と合流。車の渋滞で暑苦しい。 東田子の浦駅(写真右)に到着したが、まだ午後3時15分。

■ 望嶽碑・昭和放水路 ■約1〜2km
明日はどうなるか判らない筋肉痛!向こうに見えるエントツまでガンバッテみる。 歩いてすぐ立円寺の境内に望嶽碑 (尾張藩の侍医、柴田景浩は江戸に行く途中、しばらく立円寺に滞在し 、富士山を賞して碑をたてた) その先のイベント昭和放水路はかなり大きかった。歩道橋に登って吉原にあるエントツ位置を確認した。 かなり先だ。ビジネスホテルに帰ったらまず最初に風呂に入ろうっと。

■ 吉原が見えてきた ■約3〜4km
ヘトヘトのホームレス状態は続く。エントツが近づくにつれ常夜灯が多くなってきた。 宿場が近い。やたら毘沙門天の看板がある。疲れていたけれど階段を登ってみた。 妙法寺(写真左)というお寺なのだが、かなり派手め。 吉原駅のホームが見えてきて、そのまま真っ直ぐ進んだら線路構内に迷い込んでしまった。 駅の入口はさっきの左カーブだったのだ。しかし運良く金網にドアが付ていて外に出る事が出来た
・・・午後16時30分:真黒に日焼けした男が富士駅前のビジネスホテルの中浴場にいた。 (行程3時間00分(計7時間)・1999.8/26(木):万歩計=43059)

旅人:浮浪雲
14.沼津宿〜原宿 16.吉原宿〜蒲原宿