![]() | 9.大磯宿〜小田原宿へ(街道地図) |
| 神奈川県中郡大磯町→松並木→六所神社→二宮→押切坂→国府津(12km:3時間) |
■ 大磯宿について ■(1999年6月26日)雨![]()
朝から雨が降っている・まいったなぁ〜・・・しかし旅人の足だけは御殿山の踏み切りを通過していた。
品川駅で南アルプスと「おにぎり」を買い東海道線ホームの喫煙コーナーに直行。
このホームにはデイパックにウォーキングシューズ姿の人達が多い。あれっ!地図を忘れた。
・・・大磯宿は品川から8番目の宿場町として制定され
1620年には尾上本陣の祖先市右衛門が大名宿として宿を始め、
その後1635年に参勤交代の制度が実施されると、東海道の往来が一層はげしくなり、
大磯宿も賑わいをみせてきた。
|
■ 海水浴の発祥地 ■約500m![]()
静かな高級感ただよう大磯駅に不釣り合いな「海水浴歓迎」の看板に首を傾げながら
海岸に降りてみた。そこには海水浴発祥の地として降ろせない看板の理由があった。
日本最初の海水浴場(
明治の日本人に海水浴場の効用を説いたのは時の陸軍軍医総監松本順で、
その尽力により、
明治18年にわが国最初の海水浴場として大磯海水浴場が、照ヶ崎海岸に開設された。
今も毎夏、海水浴客でにぎわっている)
地図を忘れたので効率良い歩きが期待できない不安にトイレに行きたくなった。
あわてて出てきた失敗を悔やむ。昨日、見ていた地図の記憶を頼りにまっすぐ歩く。
|
■ 延台寺・地福寺 ■約200m![]()
歩いてすぐ左にお稲荷さん(?)が見え横を覗くと延台寺があった。
狭い境内の中には大磯遊女の墓、虎御前供養塔、曽我十郎が刺客に襲われたときに
彼の身代わりとなった虎御石など多くの史跡があった。
東海道を西へ行くと右手は小島本陣・尾上本陣跡と続くがその奥に地福寺がある。
地福寺
(
承知 4年( 837年)の創建と伝えられる地福寺の境内には、
晩年をここで過ごした島崎藤村夫妻の墓がある。
藤村は当地の自然を気に入り、やがて台町に住むようになって、この地で永眠した)
先ほどのトイレ状態は我慢出来る段階に落ち着く。人間気持ちの問題だと言う事がわかった。
歩き始めると大した問題ではなかった。
|
■ 新島襄終焉の地・鴫立庵(しぎたつあん) ■約2〜300m![]()
小さな森や植え込みの緑を発見したら必ず確認するクセをつけている。
史跡がある確立が高いのだ。
歩道上に植え込み史跡(写真左)を発見!!
新島襄終焉の地
(
キリスト教主義教育による人民教化に献身。
1875年京都に同志社英学校設立。その後同志社大学設立を企図して
東西奔走中病にかかり1890年療養先の大磯で志半ばにして47才の生涯を閉じた)
なにやら朝早くから人の行列・蒲鉾屋さんの開店を待っているらしい。
美味しくて有名なのだろう。店名と写真掲載は遠慮しておく。(ヒント:このそば)
小雨の大磯をしばらく歩く。湘南発祥の地の碑があった。(中国洞庭湖のほとり、
湘江の南側に、この地が似ていたことからという)
隣の鴫立庵(写真右)と関連があった。
鴫立庵(
京都の落姉舎、滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場のひとつ。
1695年に俳人大淀三千風が入庵してから一躍有名になった。
歴代庵主の句を刻んだ石碑も多くあり、庵全体がひとつの文化財になっている)
|
■ 松並木・滄浪閣(そうろうかく) ■約1km![]()
少し行くと登り坂になった。大磯中学校あたりから見事な松並木に遭遇する。
松並木(
江戸時代幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、
宿場をもうけ交通の便を良くしたので、
参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されてきました。
松並木は今から約400年前に街道の改修のときに植えられたもので
幕府や藩主により保護され約150年前からは厳しい管理のもとに立ち枯れ
したものは村村ごとに植え替えられ大切に育てられてきたものです。
この松並木はこのような歴史をもった貴重な文化遺産です)
松並木が途切れたあたりに明治の元勲 伊藤博文公邸跡の滄浪閣(写真右)が見えてきた。
現在は結婚式場と中華料理の大磯滄浪閣という施設になっている。
|
■ 雨の道 ■約2〜3km![]() ![]()
雨足が強い!次の宿場まで急ぐ旅人の目にやさしい日本の花が咲いていた。しばらく歩くと大磯城山公園の信号ソバに吉田茂邸跡があった。
公園のような邸宅であったが中には入れなかった、史跡の案内柱に吉田茂の銅像が↑で表示
されていたので探し周るがとうとう見つからなかった。国道へ出ると「所沢→伊東」のゼツケンを付けた
雨の中を走る一団を見た。考えただけでも恐ろしい。これから小田原を抜け伊東まで走って行くようだ。
|
■ ガラスのうさぎ・二宮 ■約2〜3km![]()
しばらく歩いていると先ほどのゼッケン1人を抜いた(靴を脱いで休んでいた)
確かに何も無い雨の国道を走るのは辛いと思う。でも旅人は見ていました、あなたの一所懸命・・・
魚屋のオジさんもガンバっていました。
そして横道のひっそりとした風景も雨の中やさしくしてくれました。
右に立つ六所神社への参道への赤い鳥居を通過しても、
二宮の駅前(写真右)に到着しても(トイレは行きませんでした)旅人は歩き続けました。
駅前には「ガラスのうさぎ」を抱いて静かにたたずむ少女の像がいるのです。
(悲惨な戦争を体験した少女の物語。母、妹を空襲で亡くし、
疎開先の二宮でも目の前で父が機銃掃射で死亡、親戚に預けられてイジメられるが、
ガラス職人だった父に作ってもらった「うさぎ」を形見として大切に持ち、つらい日々を過ごし、
最後に戦争が終わってお兄さん二人が帰って来ます)
|
■ 一里塚・押切坂 ■約1〜2km![]()
感傷的になった旅人の行く手に国道と細い旧道の二又道が現れた。
押切坂である。この分かれ目に江戸から18番目の一里塚跡の碑があった。
ここから左の旧道に入る。そのまま坂を下ると先ほどの国道1号と合流。
この国道1号を行き押切橋を渡る。小田原市の看板表示があった。
ついに日本橋から小田原まで歩いたのだ。写真では名所・旧跡だらけに見えるけど
東海道の殆どは車が走る国道なのだ、俺は歩いていたのだ。ただ黙々と・・・
苦しみの後は楽しさ倍増なのだ、そして楽しさの後は苦しみの繰り返し。歩く事は人生そのものなのだ。
文を埋めるためにグダグタ書いているのでは無いのだ。(旅人さ〜ん!もう丁度いい文字数です)
|
■ 海沿いの街道 ■約3km![]()
小田原市に入ったと言ってもダウンタウンでは無い。まだ漁村の香りがする。
ここら辺から道の左は全て海だ。海を道連れに歩く、雨も止んだし気分がいい。
横丁の家の間から海に出てみた。
晴れていれば泳いで帰る余力あり(3時間以上歩いて居るのだが)
このまま箱根越えの為に箱根湯本まで行きたいが、今日は国府津までとして、次回に
持ち越す。自分の歩力では楽しく歩くのに1日10キロ位が理想だ。
・・・午後12時40分:東海道線を1時間も立ち放しで窓の外を見つめている少し成長した男がいた。 (全行程3時間30分・1999.6/26:万歩計=23151・電車移動含) |
8.平塚宿〜大磯宿へ
10.小田原宿〜箱根旧道へ
|