9.中田宿〜古河宿へ(街道地図)
茨城県・中田関所跡→中田宿跡→光了寺→古河北→一本道→古河一里塚(5km:2時間)

■ 中田宿について ■(2002年3月22日 am10:30〜)曇
中田関所跡大きくカーブをする道 橋を渡ってすぐ左に行くと大きくカーブをする道がある。そのコーナーに中田関所跡があった。 説明板によると「当地と対岸の栗橋の川の流れの部分を房川といい、ここに房川渡中田関所が設けられた。 やがて関所は対岸の栗橋側に移された」とある。 ・・・ 江戸時代の中田宿は現在の利根川橋の下、今は河川敷になっている場所にあった。 再三の移転を経て、現在の町並みになったのは大正〜昭和にかけての利根川修復工事によってである。 宿場の形態は栗橋と中田で交代であたる合宿であった。 宿場規模は幕末の調査で栗橋宿404軒に対し中田宿69軒となっている。 ・・・

■ 中田宿跡 ■約5〜600m(10:40)
中田宿跡の説明板芸術的な防風植木中田宿市街 歩道の無い道を進み、大きな交差点を渡る。渡ってすぐに中田宿跡の説明板が立っていた。 (説明の内容については前述の通り) この説明板は対面の芸術的な防風植木に立ち止まり、写真を撮っていたため、危うく見逃すところだったが、 暇人の喜多さんが教えてくれたのだ。 交通量が多くてもやはり旧道は有り難い。まだまだ街道の面影が残る。

■ 鶴峯八幡神社・光了寺・本願寺 ■約500m(10:50)
本願寺光了寺鶴峯八幡神社 しばらく歩くとブロック塀の奥に鶴峯八幡神社(中田の鎮守。新田義貞が北条追討の際、戦勝祈願した八幡。境内の神楽殿では毎年、五穀豊饒の舞いが奉納される) 光了寺(静御前ゆかりの寺、利根川改修のため栗橋から現在地に移転)、円光寺、そして右に本願寺と続き、中田は宿場の貫禄を見せつける。 ・・さっきからチョロチョロと小学生が足元を歩いている。下校時間?・・

■ 第四小学校・ヘルチャリ道・JR踏切り ■約1km(11:20)
古河第四小学校先の街道JRの踏切り茶屋新田付近の歩道 やはり右手に小学校があった。歩道橋も信号もある?(ここら辺で初めて見た)ここを抜けると、 今度はチャリ(自転車)に乗った中学生が向こうからやってくる。 女の子も男の子も全員ヘルメットを被ってる。壮観だ。 喜多さんは足早になり弥次と離れようとしている。多感な年頃だからって許さねぇぞー。「おぉーーーい」 ・・喜多八は無関係を装って逃げた。・・JRの踏切りを渡ると整備された歩道となる。

■ 長い一本道・雑木林・第二中学校・原町交差点 ■約2km(11:45)
原町の交差点工場反対側の歩道三峯神社先の雑木林 長い一本道を歩き続け左右に見える雑木林を抜けると左に中学校があった。 この間、同年代の下校チャリを意識して喜多さんは一回も休まなかった。 ・・喜多八はテレビで見た事はあったけど生れて初めてヘルチャリ通学を見たようだ。・・ 歩道は右に切り替わり、やっと原町の交差点に出た。手前のコインランドリーで一休みする。 ここで喜多さん、何時ものように自動販売機の世話になる。

■ 十九夜塔・古河一里塚 ■約2〜300m(11:55)
十九夜塔十九夜塔前の青いフェンス古河一里塚 信号を渡って2−300m行くと右から道が合流する地点に「十九夜」と書かれた石塔がある。 (古くから人々は月のもつ神秘に畏敬をなし、月の出を待って祈る月待信仰 がありました。十九夜待(寝待月・深夜)信仰は出産と育児の安全を願って女性のみで集まり 飲食をしながら月の出を待った) 反対側の県立古河第二高校の青いフェンスの中に「古河一里塚」が現存している。

■ 市街地・浄善寺・古河宿へ ■約1km(12:05)
浄善寺郵便局隣の古い建物幸町付近の街道 中田宿から小・中・高校と順番に見学しながら日光街道を歩いてきたようだ。 道の途中で古い建物が隔離されていた。今にも取り壊されそうなので 写しておく。街道は左から来た道と合流し、その角の浄善寺を見る。 道は市街地歩道となり古河宿に入った。そして弥次喜多二人旅はあっという間に終りに近づいた。 ・・12:40・・古河駅で水も飲まずにカツカレーを争うように食っている空腹の親子がいた。・・・ (本日行程5時間・2002.3/22(金):本日万歩計=19826)

旅人:浮浪雲
8.栗橋宿〜中田宿 10.古河宿〜野木宿