![]() | 7.幸手宿〜栗橋宿へ(街道地図) |
| 埼玉県・志手橋→正福寺→権現堂堤→雷電神社→遊歩道→会津稲荷(7km:2時間) |
■ 幸手宿について ■(2002年3月22日 am7:30〜)曇![]()
宿泊したビジネスホテル「GREEN CORE」は施設も新しくお薦めの宿だった。
昨夜は併設した焼肉店で食事を済ませ、早々と就寝し、本日、心身ともに絶好調。
・・以前から桜の街・幸手の権現堂桜が有名なのは知っていたが、まさかこの時期に幸手の桜が見れるとは思わなかった。
(今年は桜の開花が異常に早い)
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幸手の地名は、この地に日本武尊が東征に際して「薩手が島」に上陸、田宮の雷電神社に
農業神を祭ったという言い伝えが残っており、「幸手」の市名はその薩手(さって)に由来すると伝えられている。
江戸時代には日光道中と御成道が合流し、さらに筑波道が分岐する宿場町として栄えた。
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■ 志手橋〜幸手宿中心 ■約1km(3/21 15:30)![]() ![]()
踏み切りを過ぎ倉松川に架かる志手橋を渡ると幸手宿場内となる。
右手に神明神社(昔この場所に高札場があった)。
その先、街道沿いには古い家屋が宿場の香りを残す。
市街(助町)に入ると「明治天皇幸手行在所跡」(奥に屋根のついた説明板と記念碑)がある。
・・メモ:この場所は明治29年10月、明治天皇が宿泊した馬之助町の元名主の中村家跡・・
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■ 正福寺・幸手一里塚跡 ■約1km(3/21 15:50)![]() ![]()
市街は続き、荒宿交差点を越えると左奥に聖福寺(日光参詣に将軍や勅使が休んだ将軍の間や勅使の間があり、左甚五郎作と伝わる彫刻や絵画も残されている)
右にカーブする路傍に「幸手の一里塚」跡がある。正面、正福寺の「義賑窮餓之碑」(天明の飢饉の時、幸手宿の義人21人が米や金を出し合って難民を救った事を讃えた記念碑)
を見てビジネスホテルへ直行した。3/21 万歩計=18949
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■ 権現堂の桜堤・順礼の碑 ■約1km(8:20)![]() ![]()
桜の隧道(トンネル)はここから1km続く、
堤の中程で「順礼の碑」(碑の解説には200年前、権現堂堤が決壊し修復工事中、
通りかかった順礼母子が1.自ら濁流に身を投じ洪水を治めた。
2.工事は無駄だと言ったため怒った工事人夫に投げ込まれた。の2つ伝説が正直に書いてあった。
真相は不明だが人身御供となった親子を供養するとある)
その先、峠の茶屋では花見客のために慌しく開店準備。
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■ 行幸橋〜旧道・外国府間道しるべ ■約500m(8:35)![]() ![]()
桜堤を通り抜け河川工事の行幸橋(みゆきばし)を渡って国道4号線と並ぶ左土手下の旧道を行く。
(正確には土手直下道と東武線路の間にある道)
車も人通りも無くなった静かな田舎道を行くと正面に外国府間(そとごうま)の道標がある。
(1775年製で右つくば道、左日光道と書いてある)
この先で喜多八が待望の販売機を見つけた。
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■ 雷電神社・土手下旧道・小右衛門一里塚 ■約1〜2km(9:00)![]() ![]()
細い街道は正面の雷電神社を迂回するように続いていた。
神社裏の樹木は落雷にあったのか焼け焦げている。
すぐに道は小高い変則十字路に出るが、ここで右手に見える国道4号の土手下の道を行く。
街道は堤に挟まれ益々細くなる。しばらく歩くと左に弁財天を祀る弁天堂がある。
(この弁天堂は堤上にあったが国道4号線工事のため現在地に移された)
ここが小右衛門一里塚だ。
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■ 地下道〜水辺の遊歩道〜新幹線高架 ■約1〜2km(9:25)![]() ![]()
すぐ先にトンネルが見える。近づくと右にも賑やかなトンネルがある。
ここを潜って国道4号線の信号を渡ると水辺の遊歩道。
トイレ休憩をしてゆっくり歩く。遊歩道は新幹線の高架下へと続いていた。
・・メモ:喜多八はここを潜るのだと言い張ったが、弥次は信用出来ず、先のトンネル(写真左)を潜り偵察に行った。
待っていた喜多八の顔は勝ち誇っていた。・・
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■ 栗橋大一劇場〜会津稲荷・新道 ■約1km(9:45)![]() ![]()
小右衛門北の交差点で国道4号を渡り、少し先の「栗橋大一劇場」(ストリップ)横の旧道を行く。
すぐ右手に上川通神社がある、住宅街をしばらく歩くと遠くに大きな道路が見えた。
会津見送稲荷が右手民家の庭奥にある。
この地点で最近、整備された日光街道を眺める。「炮烙地蔵」への道しるべがあった。
・・10:00:・・史跡を見るたび立ち止まる父の行動に喜多さんは母の買物姿を見た・・・・。
(行程2時間・2002.3/22(金):万歩計=10137)
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6.杉戸宿〜幸手宿へ
8.栗橋宿〜中田宿へ
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