5.雲出〜松阪へ
三重県一志郡三雲町→月本追分→六軒→市場庄→塚本橋(8km:2.5時間)

■ 雲出橋 ■(2001年5月3日 pm13:50〜)晴
土手の上に上がると視界は大きく広がった。 目指す雲出橋は軽自動車が一台通れる位の幅の狭い風情ある橋と聞いていたのだが、 現在は工事中で渡れない。 100メートル程上流の新しい橋を渡ることになる。 そこは常夜燈が置かれ休憩の出来る公園になっていた。 (三重県下で櫛田川、宮川と並ぶ大きな河川の 雲出川は、その昔、南朝と北朝の境で、橋はなく小野古江(おののふるえ)の渡しと呼ばれ 、船で往来していた。)

■ 松浦武四郎生家(北海道の名付け親) ■約500m(14:00)
新しい橋を渡ると工事中橋の延長線上に街道が細く続いている。 小さく静かな町を歩いていると蝦夷地の探検家、「北海道」の名付け親として知られている「松浦武四郎」の生家を発見した。 手にした地図とは全く違う位置に突然と現れたのである。 ここから10分も歩くと金剛寺十字路に宮立型と呼ばれる「肥留常夜燈」が建っている。

■ 月本の追分 ■約2km(14:30)
笠松井を過ぎ、何も無い川沿いを淡々と歩くと香良洲道(からす道)への案内道標に出会う。 ここから600m程行くと奈良街道と交わる月本の追分が見えた。 (月本追分(三重県指定史跡文化財)= 奈良街道と伊勢街道との分岐点に伊勢街道最大の道標大きな常夜燈が建っている。 当時は役人常駐の立場があり、また旅人の休憩所として茶屋や煮物屋が立ち並び大変賑わっていた)

■ 六軒(六軒茶屋) ■約1〜2km(15:00)
幾らか広くなった通りを進み、からす道との分岐点で右に急カーブする。 しばらく行くと伊勢神宮式の小津(おづ)常夜燈があった。 (曲り角の細い道を行くと六軒駅へ出る) その先の レトロな三渡川を渡った初瀬街道との分かれ道に六軒の追分道標が建っている。 江戸時代、この場所は全国から集まる旅人で賑わっていた。 (三渡川=伊勢参宮古道の渡し口が3ヶ所であったため、三渡りの名がついた)

■ 市場庄の家並み ■約1〜2km(15:30)
市場庄地区に入ると連子格子の家並みが続き。街道気分が盛り上がる。 ・・・・市場庄1市場庄2市場庄3・・・・ 道の傍らに「忘井之道」石標、 左の小道を100m程行くと「忘れ井」がある。 (忘れ井=「別れゆく都の方の恋しきにいざ結びみむ忘井の水」  その昔、斎宮の官女がこの忘井を通る際、 遠く都を離れ、はるばると伊勢の地に来た望郷の念を詠んだ歌が今も残っています)

■ 久米道標群・舟木家 ■約500m(15:40)
行く先の近鉄のガードを潜ると家並みも途切れ、田畑が顔を出した。 久米の街道を行くと行者堂、庚申堂、道標等が並んだ道標群に突き当たる。道を左に曲がって進むと遠くに白壁の屋敷が見えた (この屋敷の舟木家は南北朝時代から続く名家で、長屋門のなまこ壁は文政年間に造られた)。 ここを過ぎると民家が多くなってくる。

■ 塚本橋・富士大権現の碑 ■約1km(16:00)
街道は近鉄「松ヶ崎駅」住宅街の小道を左右に曲がり、道路高架下を潜ると百々川に架かる塚本橋(写真右)にでる。 右の水門奥に 自然石の「富士大権現」碑 が大切に建てられていた。(この村で富士講が行われていた証) 時刻は16:00、棒となった足はJRの踏切りを越え、夢遊病者のように松阪の宿場街道へと入っていった。(昼飯を何処で食ったのか忘れ、歩行記憶も薄れている)

■ 宿場街道 ■約2km(16:10)
この街道を30分も歩けば松阪に着く。頑張ろう。 ここまで旅人は一言も愚痴を言わなかったが辛かったのだ。大人になったのだ。 ここら辺はあまり憶えてないので愚痴って済ますのだ。・・ 街道に薬師寺の仁王門 (唐様式、和様式を取り入れた造り)があり宿場風景が見られる。 遠くにやっと松阪大橋が見えた。 ・・・16:35:松阪市内の名所を巡り、縮麺ラーメンを食べ、コンビニへ行った事だけを憶えている。・・・ (行程2.5時間(計8時間)・2001.05/03(木):万歩計=38895)

旅人:浮浪雲
4.津〜雲出 6.松阪〜斎宮